比企の歴史

比企の地名のおこり

 比企は埼玉県の中央部に位置し、山地から丘陵、そして沖積地へと変化に富んだ地形が特徴です。平安時代に編纂された『延喜式』には武蔵国の郡名として比企が登場しますが、「ひき」は日置が語源で、日置部(ひおきべ)という太陽祭祀集団と関係するという説が有力です。ちなみに、鹿児島県には薩摩半島西部に日置郡があります。

畠山重忠と菅谷館

 さて、比企が歴史上、もっとも光彩を放ったのは鎌倉時代から戦国時代にいたる中世であったといってよいでしょう。嵐山町菅谷には畠山重忠(1164〜1205)の館に起源をもつとされる国指定史跡菅谷館跡があります。重忠はいうまでもなく、郷土埼玉の生んだスーパーヒーローで、相撲が強く、一の谷の合戦で、愛馬の三日月をかついで鵯越の急坂を駆け下ったという伝説を残しています。桓武天皇の子孫で秩父平氏と呼ばれる名門の出身で、源頼朝を支えて鎌倉幕府の基礎を築いた人物として有名です。菅谷館跡には県立嵐山史跡の博物館があり、重忠や菅谷館に関する展示のほか、埼玉県の中世を対象とした常設展示、毎年テーマを選定して開催される企画展示が開催され、シンポジウムなどの普及事業も活発です。

畠山重忠 跡菅谷館跡 県立嵐山史跡の博物館

木曽義仲と大蔵館

 おなじく嵐山町の大蔵地区には木曽義仲(1154〜1184)の父源義賢の館跡とされる埼玉県指定史跡大蔵館跡があり、土塁の跡が残されています。義賢は重忠の曽祖父重綱の子である重隆の婿となりましたが、久寿2年(1155)8月、鎌倉を拠点に関東の制覇を目指していた源義朝の長子義平(頼朝の兄)に急襲されて、ともに討ち取られてしまいました。義仲はこのとき2歳でしたが、斉藤実盛の計らいによって信濃へ逃げのびることが出来ました。この義仲は成人すると、武力を蓄えて平氏打倒に立ちあがり、倶梨伽羅峠の合戦に勝利し、京都から平氏を追い出すことに成功しましたが、占領軍の乱暴狼藉によって、後白河法皇の怒りを買い、源頼朝の派遣した追討軍によって、近江国(滋賀県)粟津原で討ち取られてしまいました。このとき先陣を勤めた畠山重忠が、落ちていく義仲の愛人巴御前に出くわし、組み討ちをして、巴の鎧の袖を引きちぎったという話は大変有名です。
 なお、大蔵には義賢の墓と伝わる五輪塔が残され、2キロメートル西方の鎌形八幡宮には義仲産湯の清水が今も枯れずに湧き出しています。

鎌形八幡宮

仙覚律師と小川

 仙覚(1203〜1272+)は鎌倉時代に活躍した万葉集研究の第一人者です。常陸国(茨城県)の生まれで、12歳の時に万葉集の研究を志し、天台宗の僧侶となって研究を続けましたが、その集大成といえる『万葉集注釈』は麻師宇郷で完成したことがわかっています。現在、その故地である小川町中城跡には仙覚律師遺跡碑が建てられています。小川町は、このような縁によって、万葉集で町おこしを行っており、町内各地に万葉集歌のサインが設けられ、1月には仙覚万葉まつりも行われています。

比企の戦国時代

 戦国時代の城郭跡が密集していることも比企の特徴です。戦国時代には菅谷館跡が上杉氏によって再興されたほか、吉見町に松山城、嵐山町に杉山城、ときがわ町に小倉城が築かれました。この4城館跡は保存状態がきわめて良く、歴史価値も高いことから比企の城館跡群として平成20年3月に国指定史跡となりました。比企には、このほか、小川町の中城、青山城、腰越城、東松山市の青鳥城、足利基氏館跡など、多くの城郭跡が残されており、これらを訪ね歩く歴史散歩も静かなブームとなっています。
なお、山城の多くは道が未整備なので、事前に嵐山史跡の博物館や各教育委員会で情報を手に入れ、支度を整えたうえで、蛇や蜂にも十分注意する必要があります。

信仰の拠点 慈光寺

 慈光寺は、ときがわ町西平の山中にあります。奈良時代に鑑真の弟子道忠が創建したという古刹で、源頼朝が深く信仰して所領を寄進しています。また、後鳥羽上皇が藤原氏とともに書写した法華経を納めたことでも有名で、日本三大装飾経の一つとして国宝に指定されています。このお経は宝物殿で見ることが出来ます。また、重要文化財の梵鐘や開山塔も一見の価値があります。坂東札所九番寺であり、門前には鎌倉期から南北朝期の大型板碑が並んでいて壮観です。
 なお、坂東札所十番の正法寺は東松山市岩殿に、同十一番安楽寺は吉見町御所にあります。正法寺は一直線に伸びた門前町の景観、安楽寺は埼玉県指定文化財の三重塔が見所です。

慈光寺 正法寺 安楽寺

鎌倉街道

 中世に比企地方が光彩を放ったのは、当時の幹線道路である鎌倉街道上道(かみつみち)によるところが大きいといわれています。この道は比企郡内を縦貫していて、南下すれば武蔵国府、さらに進めば鎌倉、逆に北上すれば、児玉、藤岡から信州または越後へ達することが出来ました。つまり、比企は当時の交通の要衝に発展したということになります。戦国時代に城郭が多数築かれた理由も、この鎌倉街道を監視または支配するためであったと考えられています。
 笛吹峠は嵐山町将軍沢から鳩山町澄江へまたがる峠で、鎌倉街道が切通し道になって良好に保存されている場所です。ここは、新田義貞の子義宗と足利尊氏の間でいくたびか刃が交えられた武蔵野合戦の決選地としても有名です。嵐山史跡の博物館を出発点として、学校橋を渡り、大蔵宿を経て、笛吹峠を越えて鳩山町へ至るウォーキングコースは眺望にも富んでいます。このほか、小川町や滑川町にも鎌倉街道の跡が保存されている場所があります。

笛吹峠

(前埼玉県立嵐山史跡の博物館学芸主幹 若松良一)

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